PLANET DESIRE
Clue Ⅲ 淀まない命

Part Ⅰ


 それからおよそ2週間。ユーリスの身体は快方に向かっていた。医者がくれた増血剤とシーザーが採ってきた薬草の効果が出てきたのかもしれない。彼はゆっくり体を起こしてみた。まだ多少の眩暈は感じた。しかし、一時に比べれば天地ほどの差だ。もう熱を出すこともなくなったし、傷口から出血することもない。
「それにしても、この姿では何処にも行けぬ。何処かで服を調達せねばならん」
土壁に手を着き、何とか立ち上がろうとしたが無理だった。肩と腕に激痛が走り、足腰にまるで力が入らない。仕方なく彼は諦め、座位のままゆっくりと手や足を動かす訓練を始めた。やり方はわかっている。子供の頃に経験したことが役立っていた。ゆっくりと関節を動かし、摩擦をし、呼吸法を行う。松明の明かりはあったが、身に付けていた懐中時計は壊れていた。昼か夜かもわからない闇の中で、彼はひたすら訓練を続けた。

 しばらくすると怪物が戻って来た。草の蔓を編んだ容れ物に小さな赤い実が山のように盛られている。
「あ…まい…の……」
怪物はそう言うと、彼の口に赤い実を入れた。
「本当だ。甘いな」
彼が微笑むとシーザーはうれしそうにまた小さな実を摘んで食べさせた。赤い実は大きな籠に沢山あった。一粒は軽く一口で食べられるような大きさだから、シーザーの大きな手でこれだけ沢山の実を摘んで来るのは大変な手間だったろう。その小さな実を怪物は爪先で摘んで自分の口にも入れた。
「ユーリ…一つ……シーザー……三つ……」
怪物は歌うように言ってそれぞれの口にその実を入れた。
(器用だな)
とユーリスは思った。
(それに、数も正確に認識している……)
ユーリスは感心したように怪物を見つめた。

「…何…?」
じっと自分を見ているユーリスに気づいて怪物が男を見た。
「おまえ、ずるいぞ。さっきから自分ばかり食べてるだろ?」
ユーリスが不平を言って手を伸ばしたが、その籠に届かない。
「ユーリ……もっと…食べ…る…たい?」
「ああ……」
ユーリスが頷く。と、怪物は半身を軽く揺すった。
「……ユリ……よい…なった……」
怪物が籠をユーリスの膝に乗せた。それでも、彼がなかなかうまく口に運べないでいると、怪物が手を添えてきた。
「…もっと……や…る……」
「シーザー……」
彼はそっと怪物のごつい指を握った。不思議なことに裏側は人間のようにやわらかい皮膚をしていた。怪物はその手でそっと男の頬に触れて来る。それは、思ったよりもずっとやさしかった。怪物にも心があり、温かい血が流れているのかもしれない、とユーリスは思った。
(もしかしたら、怪物はもっとずっと人間に近い存在だったのかもしれない……。少なくともシーザーは違う。他のどの怪物よりも優れた存在だ。そして、わたしにとって特別な……)

ユーリスがじっと何かを考えているので怪物が訝しんできた。
「ユ…リ……?」
表情がないのに、透かして見える感情の起伏……。そんなシーザーに男は言った。
「ところで、わたしの服をどうした? このままでは外にも出られぬ」
「服……」
シーザーは急いで奥に駆けて行くとぼろぼろになった彼の服を持って来た。しかし、それはあちこち切り刻まれていて、身に付けたとしてもあまり意味はないだろうと思われた。
「酷い有様だな。おまえの爪は鋼鉄でも裂けるのか?」
ユーリスは苦笑した。
「これでは使い物にならないな。だが、人間には服が必要だ。どうにかして調達できないものだろうか?」
とユーリスが神妙な顔をすると、怪物もまた神妙に天井を見た。

「そうだ。バーテル先生に頼んでみるか……いくらかの金はあるのだし……」
と言って彼は巾着の中から金貨を一枚出すと言った。
「これは金だ。これがあれば、服や物と交換することが出来る。今度、医者に会ったら頼んでみてくれ」
と言ってシーザーに渡す。怪物は丸く光っているその物体をしげしげと眺めた。
「金……?」
「そうだ。それと交換にわたしの服を……。これ1枚で一式買える」
「ユーリ…服……欲しい……?」
怪物はじっと金貨を見つめた。
「そうだ。頼む」
と言ってユーリスは怪物の手の甲を軽く叩いた。
「……シーザー…行く…る……」
言うなり、彼は風のように駆けて行った。
「待て! シーザー、そんなに急がなくてもいいんだ。シーザー……」
しかし、怪物の姿は暗闇の中に消え、あっと言う間に見えなくなった。


 シーザーは村に来た。そして、診療所を覗いた。だが、あの医者はいないようだった。そこで怪物は思案した。要は人間の着替えを買って帰ればいいのだ。しかし、何処に行けばそれが手に入るのか怪物にはわからなかった。
 道をずっと行くと家や人が増えて来たので、シーザーは大きな建物の影や屋根の上を跳んで移動した。彼の体重はかなりあったが大きな石でしっかり造られたこの辺りの家はビクともしない。うっかり爪を立てたりしなければ何の痕跡も残さずに移動できた。何軒か店らしいのも見つけたがいずれも服は売っていなそうだった。シーザーは困って村のあちこちを徘徊したが、結局洋服屋は見つからなかった。シーザーは仕方なく元来た道を戻り始めた。
 途中、庭に洗濯物が干してある家を見つけた。そこには、人間が着る物が一式干してある。シーザーは閃いてその庭に近づいた。それらを持って帰れば、きっとユーリスが喜ぶに違いない。怪物は金貨を握り締めた。

――これは金だ。服と交換できる

そうだ。これと交換すればいい。だが、誰が彼の話を聞いてくれるだろうか? 彼は怪物なのだ。姿を見ただけで逃げ出してしまうのがオチだろう。でなければ悲鳴を上げて仲間を呼び、大騒ぎになる。人間は彼に武器を向けるだろう。そうなっては面倒だ。彼は黙って失敬することにした。垣根を跳び越えるとそこに干されていた物を急いでかき集めて抱えた。と、その時、背後で人の気配がした。それは女だった。彼女は声にならない悲鳴を上げてそこにへたり込んだ。どうやら脅かしてしまったらしい。シーザーは何か言おうとしたが、何も言わず洗濯物を持って垣根を跳び越えた。それから、振り返って、女の元へ金貨を投げた。
「やる……」
それだけ言うとシーザーは風のように駆けて行った。後に残された女は呆然とそちらを見ていたが、ふと我に返って怪物が投げて来た物を見た。
「金貨……」
それは、今持って行かれた物よりも数倍価値がある物だった。
「怪物がお金を……? まさかね……。でも……」
女は金貨を握り締めたまま、いつまでも怪物が駆けて行った方を見つめていた。


 シーザーが帰って来た。
「ユーリ! 服……」
怪物は得意そうに持って来た服を投げて寄越した。
「済まぬ」
ユーリスは礼を言うと不自由な手でそれらを一枚ずつ広げた。怪物は、まるでご褒美をもらえるのを期待して待っている子供のように、そわそわと男の様子を見ていた。しかし、ユーリスはうれしそうな顔をするどころか、心なしか沈んでいるように見えた。
「ユーリ……?」
怪物が不安そうに覗き込む。
「シーザー……せっかくだが、これは、わたしには合わぬ」
「……ない……?」
怪物が唖然として訊く。
「これは、女の服だ」
と言って長い丈の服を広げて見せた。と、シーザーは、じっとその服とユーリスとを見比べ、それからその紫の服を引ったくると頭からユーリスにかぶせた。
「ウワッ! 何をする……!」
とジタバタと暴れるユーリスを押さえつけて無理に上からかぶせ、強引に服を着せてしまった。

「おい……一体どういうつもりだ?」
とユーリスは怒ったが、シーザーは彼を見つめて言った。
「……いい……」
「何がいいだって?」
ユーリスは文句を言ったが、これを上に羽織っていれば、裸でないのにはちがいない。あちこち摘んだり引っ張ったりしてみたが、特に窮屈でもなかったので、取り合えずはそれを着ていることにした。
「まあ、今のうちは外に出られる訳でもないしな……」
と自分を納得させる。それにしても、この服の持ち主はかなり大柄な女なのだろうと想像することができた。
「ううむ。身体が大きいということは、胸の方もそれなりに……」
と想像が膨らむ。
「うーん。久々に女の匂いがする……」
と自分が着ている布に鼻を近づける。それを見て、シーザーもくんくんと匂いを嗅ぐ。そして、満更でもなさそうに言った。
「……いい……」
「へえ。おまえもわかるのか?」
とユーリスが笑う。と、怪物も返す。
「うまい……にお…い……」


 それから、ユーリスは順調に回復し、壁をつたってなら何とか歩けるようになった。手も痺れが取れて大分自由に動けるようになり、食事や身の回りのことは自分で出来るようになっていた。しかし、まだ、外へは行けないので、食料の調達は専らシーザーの役目だった。

 そんなある日。シーザーがご機嫌で帰って来た。
「肉……やる」
と大きな骨付きのそれをくれた。何処かでちゃんと焼いたらしく、焦げ目が付いていい匂いがした。が、ユーリスは受け取らなかった。
「まさか、これは人間の肉じゃないだろうな?」
と警戒の目で怪物と肉とを見比べる。
「……人間の肉ならいらぬ」
とユーリスは拒絶した。しかし、においに刺激されたのか彼の腹の虫は獲物をよこせとグーグー鳴いた。

「……肉……」
シーザーが尚も押し付けて来たが、彼は頑なに拒否した。
「……食う……ない……何故?」
「何故だって? おまえは、同胞の肉を食えるか?」
きつい目で訊く。だが、シーザーは迷わず言った。
「食う」
「何も感じないのか?」
「…ない」
ユーリスは、長いため息をついて言った。
「わたしには出来ぬ。普通、人間は人間を食べたりしない。同族を食ってまで生き伸びようなどとは思わんのだ。そんな野蛮なことをするのは……獣以下の生き物だけだ」
炎の陰影が二人を照らし、影を落した。

「おまえは、実によくしてくれた。その点、わたしとて、とても感謝している。だが……」
二人の間に闇が垂れる。洞窟の奥でゴーッと風の音が鳴り、燃える炎の音に混じる。そんな松明の明かりを見ていた怪物が言った。
「……人間……ない…から…か……?」
掠れた声だった。その表情を探ろうとユーリスが見つめる。が、いつもとまるで変わらない淡々とした目をしている。ユーリスはフッと目を逸らして言った。
「……そうだ」
煙が透けて上空へと流れる。剥き出した岩肌の陰影が深い。まるで巨大な怪物の露出した皮膚のように……。

「所詮、人間とは相容れぬ者だからな」
遠い目をして男が言った。
「ユーリも…か……?」
じっと射るような視線で怪物が見つめる。
「シーザー……化け物から……好き……ない…か?」
ざらついた声が周囲の空気を震わせる。
「いや。おまえのことは嫌いじゃない。だが、人間の肉はどうしても……」
それを聞くとシーザーは入り口の方へ駆けて行った。そして、物凄い速さで戻って来ると大きな動物の頭を突き出して見せた。
「それは……いのしし……?」
ユーリスの問いにシーザーがうなずく。
「そうか……」
ユーリスがその大きな頭をまざまざと見つめて言った。
「済まぬ……わたしは、どうもおまえに対して先入観を持ち過ぎているようだ」
と素直に反省した。と、また、ユーリスの腹の虫が鳴いたので彼は僅かに苦笑して言った。
「胃袋の方はわたしよりも遥かに正直らしい。すまないが、その肉をわたしに分けてくれまいか?」
「……やる」
シーザーはこんがりといい色に焼けた大きな肉の塊をくれた。
「済まぬ」
ユーリスは礼を言って受け取ると両手で持ってそれを噛んだ。熱い肉汁が口の中いっぱいに広がっていく。しかも、程よく効いた塩味が絶妙に肉のうまさを引き出していた。

「美味い!」
ユーリスが言った。怪我をして以来、食事はずっとスープや果実、それに少数の食草に限られていたので、肉を食べるのは、本当に久し振りだった。
「シーザー、どうやって塩味をつけたんだ?」
「海……」
「海だって?」
「あと……」
シーザーが言った。
「人間のも……ある」
そう言うとシーザーは製品化された塩の袋を持って来て見せた。
「何て賢い……それはおまえが考えたのか?」
怪物は塩を振り掛けた肉に、思い切り噛みついて言った。
「シーザー…ない……」
「それじゃあ、誰かに教わったのか?」
「ミア……」
「ミアだって? それは人間か?」
驚いて訊く男に怪物が頷く。
「……女の子……」
シーザーが言った。
「女の子だって? ほう。それは、ぜひ、一度会ってみたいものだ。どうだ? わたしにもその女の子を紹介してくれぬか?」
しかし、怪物は黙っていた。

「どうした? わたしが信用出来ぬか?」
「……」
沈黙のあと、シーザーは再び首を横に振ると少し視線を逸らした。
「……もう……ない……ミア……出て…いった……」
それは何処か哀愁に満ちているような声だった。
「そうか……」
ユーリスは黙った。怪物は齧りかけの肉をじっと見つめている。ばちっと大きな音がして焚き火にしていた炎が揺らぐ。
「……人間……ないから……シーザー……化け物……から……!」
そう言うと彼は乱暴に肉を喰いちぎった。それから、大きな骨を投げ捨て、小さな骨はガツガツと噛み砕いた。その音が洞窟の中に響く。それは、殺された動物の哀れな悲鳴のようでもあり、また、それは、シーザーの心の叫びのようにも思えた。
「シーザー……」
怪物は返事をしなかったので、ユーリスもただ黙々と肉を食すしかなかった。


 更に数日が過ぎて、ユーリスはどんどん回復して行った。さすがにまだ剣を振り回すことは出来なかったが、少しずつ本格的な訓練も開始した。洞窟の端から端まで歩いたり、柔軟や筋肉の鍛錬を強化して行く。洞窟の中は思ったより広く、入り口まで行く頃には少し休憩しなければならなかった。シーザーが出かけている間、それを行うのが日課になった。
「それにしても、何故、シーザーは出かける時、入り口を岩で塞いで行くのだろう? わたしを逃がさないためか? それとも……?」
ユーリスにはその事情がよく呑み込めなかった。試しにその岩を動かそうとしてみたがびくともしなかった。彼が本調子でなかったこともあるが、もし、負傷していなかったとしても結果は同じだったろう。

ミシリ……

突然、岩の向こうから音が聞こえた。
「誰だ? シーザーか?」
呼び掛けてみたが返事がない。音はまだ続いている。岩盤が崩れるような何かが軋むようないやな音だった。
「何かがいる……!」
怪物か、それとも獣か、判断はつかない。だが、それは間違いなく人間ではなく、こちらに対して敵意を抱いている。異形のものの気配だ。と、突然、音が止んだ。
「行ってしまったのか? それとも……」
張り詰めた空気。震える鼓動……。突き上げるような悪寒。
(敵だ)
本能的危機を感じた。彼の手に今、武器はない。しかもまだ、機敏に動くことも出来ない。ここで怪物に襲われでもしたら万事休すだ。

(早く奥へ……)
背後でまた不気味な音が響いた。もし侵入しようとしている者が怪物ならば……。体力もなく、丸腰の状態のユーリスにとって絶対絶命の危機だ。しかし奥へ行けば剣がある。振り回すのは無理でも少しは役に立つだろう。岩壁を伝って彼は急いだ。とその時、背後で砂や小石が落下する音がした。さっと洞窟内に光が差し込む。振り向くと岩が数十センチ程動いて外の光が差し込んでいた。
「眩しい……!」
ユーリスは目を覆った。が、その光の中で蠢く黒い塊を見た。
(怪物!)
やはりそれはシーザーではない。ごつごつとした不気味な形態をした怪物の手が岩の隙間から伸びていた。獲物を探り、くねくねといやらしく這いずっている。

(逃げなければ……)
ユーリスは生まれて初めて恐怖を感じた。が、焦れば焦るほど足は前に進まず、手はうまく支えを掴むことが出来なかった。慣れない女物の巻物のそれが足に絡まる。
「何という醜態だ。このような姿、ラミアン殿には絶対見せられぬな」
自分自身を勇気づけるため、軽口を叩いてみたものの、布を摘んだその手が微かに震えている。
(本当に何てことだろう? 今まで、どんな強敵だろうと怪物だろうと恐れなど感じたことのないわたしが……何故恐怖を感じる? どうして震えが止まらない?わたしは……一体どうなってしまったというんだ?)
「シーザー……」
無意識にその名を呼んだ。それが、怪物のシーザーのことだったのか、それとも幼くして死んだ親友、シーザー クリスのことだったのか、彼自身にもわからなかった。が、ユーリスはそれら全ての思いを薙ぎ払った。

「くそっ! こんな時に弱気になってどうする? わたしは剣士だ。たとえ、この手に剣を持たずとも敵に背中を見せるなど言語道断! 気合で一矢報いるまでだ!」
ユーリスは今にも体ごと繰り入れようとしている怪物を真正面に見据えた。そして、飾りに付いていた腰の帯を外すと手頃な大きさの石を包んで縛る。そして、その一方を手首に巻いた。その時、遂に怪物が岩をずらして中に入ってきた。不気味な唸り声が洞窟の中に木霊する。血走った赤い目。耳が裂け、尖った歯を剥き出している。肌は疎らな突起に覆われ、その先端は溶けかけた溶岩のように何とも気味悪い色をしていた。

「何者だ?」
ユーリスが威嚇する。が、怪物はひたすら低く唸るだけだ。
「来るなら来い!」
ユーリスは正面を向いて身構えた。怪物の尖った爪が襲ってきた。と、その時、空気を裂いて帯が飛んだ。先端の石が錘となって突き出した怪物の手に当たり、勢いよく絡みつく。
「よし!」
ユーリスはその布をてこにして反転し、怪物の後ろに回った。そして、背中を蹴って駆け上ると首に掛けて交差し、思い切り締め上げた。
「ウグググ……!」
怪物が後ろ手で彼を探った。だが、ユーリスは絶妙にそれをかわして、爪を避けた。しかし、いくら帯を引いても怪物は一向に弱らない。首を絞めてとどめを射すには、彼の力では無理があった。先日骨折した腕も、肩の傷もまだ完全に癒えていた訳ではないのだ。無理な体勢でむやみな負荷が加わったせいで彼の骨も筋肉も悲鳴を上げた。腕と肩に激痛が走った。が、それでも帯は放さない。が、まさに一瞬、僅かに緩んだその隙に怪物は鋭い爪で帯を切った。そして、その帯布ごとユーリスを壁に叩きつけた。

「ううっ……!」
咄嗟に受身の体勢をとったものの、狭い洞窟内でのことである。背中と肩を強打した。治りかけていた肩に衝撃が伝わる。口の中が切れたらしく血の臭気が鼻をついた。衝撃で視界が霞み、腕が痺れて動かない。彼にとって一発必中だったその技は怪物には通用しなかった。
(せめてナイフがあれば……)
が、生憎それさえも持ち合わせていなかった。意識が次第に遠のいて行く……。その目に怪物の醜悪な顔と残忍な目、そして先端に突き出された鋭い爪が映った。それは確実にユーリスの喉元を狙っていた。
(殺られる……!)
そう思った瞬間。
「ギェッ……!」
怪物が悲鳴を上げた。見るとそこにはもう1匹の怪物がいた。黒い人型のそれが赤黒い侵入者の横腹を殴り飛ばしたのだ。その振動で空気が震え、乾いた土が頭上からばらばらと剥がれ落ちた。

「ガウ!」
グロテスクな怪物の眼の血管が怒りに震えて波打っている。が、黒い怪物の方は余裕だ。軽々と宙に飛ぶと土壁を蹴って反動をつけ、その腹を鋭い爪で貫いた。
「ウグァッ……!」
血しぶきを上げてもんどり打つ巨体。が、黒い怪物の怒りは収まらず、その喉元を締め上げ、胸や腹を抉って投げ飛ばし、何度も壁に叩きつけた。そして、崩れ落ちたその背中に飛び乗ると、首をへし折る。もはや、その怪物に息はなかった。が、それでも尚、黒い怪物は何度も執拗にその背を爪で刺し続けた。怒りの形相で倒した怪物の上に乗っている怪物……。それはまさしくあの砂漠の破壊神、シーザーだった。
「グァルルルゥッ……」
彼はまさしく怪物だった。その表情も、目も、体も爪も何もかも……。血走った目と爪先から滴っている血……。
「シーザー……」
ユーリスが呼んだ。
「ユーリ……」
黒い怪物は急に穏やかな目になり、彼の元に跳んだ。

「ユーリ……?」
「大岩で入り口を塞いでいたのは、こういう危険から守るためだったのか……」
「……」
「わたしがここにいることで、血の臭気で怪物をおびき寄せることに……」
ユーリスは痛みに耐えて言葉を継いだ。
「なのに、おまえは……」
彼はじっとシーザーを見つめた。
「……済まぬ」
そう言って詫びる彼を覗き込むようにして怪物が言った。
「ユーリ……」
怪物は倒れている同胞を憎々しげに見た。
「うう……」
立ち上がろうとして苦痛に顔を歪めている彼に、シーザーはそっと手を差し伸べようとした。が、血だらけのそれを見て、そっとその手を引っ込めた。
「……待つ……来る……シーザー……すぐ」
ユーリスが微かに頷く。と、シーザーは横たわった怪物の死体を急いで運び出すと、裏山に上って投げ捨てた。それから大急ぎで川に行って、血を洗った。戻って見るとユーリスは目を閉じていた。が、触ると体温も有り、息もしていた。
「ユーリ……?」
痛みのせいかその頬に涙が伝っている。シーザーはそっと指先で拭ってやると、意識のない彼を抱えて再び奥へ連れて行った。